店では、「音楽を聞きに来てくれる人がいればいっしょに楽しもう」というスタンスで歌う。お客はスタンダードナンバーや島唄ジャズを堪能する。プライベートでは開南や平和通り、国際通りなどの街歩き&ウォッチングが大好き。国際通りでアクセサリーを売るイスラエル人と日本人の夫婦とは大の仲良しで、取材時もブレスレットなどを買い求めていた。ジョイさんがリリースしたアルバム、太陽(ティダ)ぬマテリア(ジョイ洋子&ブンノートカルテット)は、ジャズと島唄の融合をみごとに表現している。重厚感のあるボーカルが心に響いてくる。
那覇市開南。昔ながらの下町情緒が今も感じられる一帯だ。この街に「ブンノート」というジャズライブハウスがある。ここでライブに耳を傾けていると、まるでニューオーリンズにいるような感覚になる。だが次の瞬間、開南にいることに気づいて驚いたりする。このギャップがおもしろい。ブンノートは気持ちのいい異空間だ。
この店の経営者がジャズボーカリストのジョイ洋子さんだ。彼女が歌い上げるスタンダードナンバーはとても耳に心地よいが、それ以上に心に染みるのは、島唄とジャズを融合させたオリジナル曲である。重厚で哀愁に満ちたボーカルに、魂を直接ゆさぶられる気がする。聞いているのがウチナーンチュだから心が共振するのかと思ったら、違うらしい。店に来たフランス人とルーマニア人の女性が、「人生を唄っている」と、泣きながら絶賛したという。
ジョイさんは鹿児島県奄美大島の生まれ。小さいころからおばあちゃんに島唄を仕込まれた。父親は旧日本軍の少尉だったにもかかわらず、戦後いち早く島に蓄音機を持ちこんで洋楽をかけた。実家は名瀬市の中心部に位置する大きな料亭で、そこに流れる島唄と洋楽に包まれて彼女は育ったのである。
長じては島でブティックを経営し、バンド活動もしていた。島唄やポップス、ネーネーズのカバーなどもやっていたという。ブティックは繁盛していて、仕入れを兼ねて世界中を旅してまわった。奄美に住んでいてもなんの問題もなかった。そんな人生が、沖縄ジャズ界の重鎮、屋良文雄氏との出会いによって大きく変わった。「それまでジャズには興味がなかったんですよ。1997年でしたか、屋良さんが奄美に来て私の歌を聞いて、『声はジャズしている』とおっしゃったんです」
それから沖縄通いが始まった。屋良さんについてジャズを学ぶためだ。
「島唄がDNAですが、次のチャレンジをどうするか、言葉を変えればどう生きるかというのがありました。ブティックで十分暮らせたんですが、挑戦してやりがいのある人生を考えたんです。80才になって棺桶に片足つっこんだときに、いい人生だったと思えるように」。重い話なのに、天性の明るさのおかげで軽やかに聞こえる。軽やかにしなやかに、人生をエンジョイしているように見える。
人生の次のステップに向けて、沖縄に移住したのは2004年。屋良さんのライブハウスで歌いながら、『自分ってなんだろう、自分の世界を作っていきたい』と考え続けた。そして、そのためには自分のライブハウスを立ち上げるのがいいと思うようになった。
「それによっていろいろな人とふれあい、自分の音楽の世界も広げられると考えたのです」
店は2007年にオープン。ジョイさんは自分の店を切り盛りしながら歌っている。そしてみずからに与えたテーマ、島唄とジャズの融合を追求する。
店だけではない。イベントやお祭りなどでの出張ライブも積極的に手がける。2008年の11月と12月には日本トランスオーシャン航空の機内音楽として彼女の曲が使われた。さらに最近CDもリリースした。『太陽ぬマテリア』というこのアルバムは、ジャズと島唄と、ジョイさんのボーカルの魅力にあふれた一枚である。
「人生では音楽が人を癒します。子守唄でそれを教えてくれたおばあちゃんが私の目標です」
今夜も人間味あふれる開南の街を、彼女のソウルフルなボーカルが彩る。
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